第31号 (1998年)
関根 清三「応報の神は存在するか ── 贖罪思想の系譜と争点 ──」 円谷 勝子「創世記1―3章の構成」 金 性済「前王国期(初期)イスラエル社会の土地所有制」 エチエンヌ・トロクメ「史的イエスの探求は続く」 小林 稔「『命を受けるため』 (ヨハ20:31)はなぜアオリストでなく現在幹なのか」 第32号 (1999年) 朴 憲郁「パウロの『諸民族』伝道の諸相」 竹内 裕「<髪のない記述>の意義を探る ── 創世記12章4節の解釈をめぐって ──」 小河 信一「#raの破壊の波及 ── 哀歌2章、1章、4章の連関性に基づいて ──」 手島 勲矢「聖書注解史序論:第二神殿時代の歴史記述と聖書注解の問題」 山田 耕太「ヘレニズム・ローマ期の修辞学的歴史叙述理論 ── ルカ文書の歴史叙述の背景として ──」 第33号 (2001年) 能城 一郎「イザヤ書原語データ・ベースの作成による翻訳比較研究 ── 関根清三訳『イザヤ書』を中心に ──」 吉田 忍「『12族長の遺言』研究 ── porneiva表象に関する考察 ──」 G・ネラン「牧会書簡 ── パウロの初期の手紙」 小河 陽「新約『家庭道徳訓』の評価をめぐって」 菅原 裕治・月本 昭男「マルコ福音書4章12節におけるイザヤ書6章10節の引用をめぐって」 第34号 (2002年) 池田 潤「ユダとイスラエル ── 列王記に見る言葉の違い ──」 上村 静「イザヤ書6章9-10節 ── 頑迷預言? ──」 関根 清三「イザヤの頑迷預言をめぐる覚書 ── 拙論の論評にお応えしつつ ──」 矢野 睦「マルコ福音書におけるデシの無理解」 廣石 望「「種蒔き」の譬えの解釈 (マルコ4:14-20) と寓喩話法」 第35号 (2003年) 並木 浩一「ヨブ記とユダヤ民族の精神」 山吉 智久「ソロモンの罪 ── 列王記11章と申命記史家 ── 」 保坂 高殿「イエス“裁判”に寄せて」 山野 貴彦「共観福音書における離婚・再婚批判テクストの伝承史的考察 ── マルコ10章11-12節、マタイ5章32節、19章11節、ルカ16章18節 ──」 太田 修司「テモテの割礼」 第36号 (2004年) 山我 哲雄「古代イスラエル史研究の最近の争点から」 廣石 望「イエスの譬えと言語行為」 矢野 睦「マルコ福音書における民衆」 山吉 裕子「ヘロデ・アグリッパ一世による迫害とエルサレム原始教会」 第37号 (2005年) 守屋 彰夫「ペルシャ時代の大祭司の系譜──初期ユダヤ教の一側面──」 東 よしみ「マタイ福音書における知恵と知者」 保坂高殿「クリスマスの起源」 第38号 (2006年) 池田 裕「詩と自然と旧約聖書」 中野 実「イエスとレプラ──イエスにとってイスラエルとは?──」 クリストフ・レヴィン「ヤハウィスト──モーセ五書の最古の編集者」(山我哲雄訳) フロワルド・ヒュッテンマイスター「ガリラヤにおけるユダヤ教」(山野貴彦訳) 第39号 (2007年) 杉江 拓磨「メルエンプタハの戦勝碑に見られるイスラエル」 高橋 優子「マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』 理論枠組みについての一考察」 吉田忍「マルコ福音書4章12節の翻訳とその解釈」 村上 信児「伝承史から探る塗油物語の起源──マタイ26:6-13; マルコ14:3-9; ルカ7:36-50; ヨハネ12:1-8──」 三浦 望「ユダヤ教知恵文学における『人格化された知恵』の系譜──ヨハネ福音書序文、ロゴス概念の背景として──」 浅野淳博「初期教会におけるアイデンティティ形成の模索(ガラ2:1-14)──社会科学的解釈のためのエテュード(アイデンティティ形成理論の適用)──」 第40号 (2008年) 山我哲雄「歴代誌におけるヨシャファト王とその対外政策」 野口誠「雌鹿が雄鹿のように谷川の水をあえぎもとめ──詩篇42:2a (MT) の信仰増分石とその翻訳──」 大貫隆「トマス福音書語録77とグノーシス主義のアニミズム」 ペトラ・フォン・ゲミュンデン(大貫隆・訳)「女性は感情的で男性は理性的? ──感情とロゴスの古代における両性との関連づけ 歴史的心理学のための一章──」 田中健三「『アンティオキアの衝突』とパウロの思想──信仰義認論をめぐって──」 第41号 ── 大貫隆教授献呈論文集 「経験としての聖書」── (2009年) 大貫隆教授 研究業績 [旧約関係] 朽木裕二 「裸」になって初めて知った「善と悪」──堕罪物語(創2:4b-3:24)解釈の試み── 山我哲雄 ナタン預言の成立 飯川雅孝 エレミヤ書「告白」の読み方についての一試行 ──A.R.ダイアモンドの通時的な方法を中心として── 月本昭男 エゼキエル書におけるアッカド語表現──26章9節aαの翻訳をめぐって── 加藤久美子 義人たちは若獅子のように──箴言28-29章における義人、不法者、社会、国家── 北 博 秘密を明かす神 ──ダニエル書2章の知恵理解── 三津間康幸 セレウコス朝時代における神殿監督職 守屋彰夫 サマリア五書における本文伝承の諸特徴について──ゲリジム山伝承とモーセの十災を中心に── 市川裕 ファリサイ派の救済思想に関する宗教学的分析──神殿供犠とシュマアの朗読の関係をめぐって── 高橋優子 マックス・ウェーバーと現代ヘブライ語聖書研究──英話圏での一動向── 細田あや子 ヨブ夫妻の図像学──ヨブ記2章9節をめぐって── [新約関係] 八木誠一 断想 聖書と聖書学 上村 静 大貫「イエス論」考 本多峰子 イエスによる病気治癒と悪霊祓いの意味についての一考察──ユダヤ、ヘレニズム的背景との比較を視野に── 廣石 望 「神の国」とイエスの譬え ──関係規定のための解釈学的考察── 山田耕太 福音書は伝記文学か? 土居由美 受難物語研究の方向性 ──伝承の最古層および悲劇的歴史記述を巡って── 原口尚彰 マタイ16章17節におけるマカリズム(幸いの宣言) 佐藤 研 イエスの呪い ──「枯らされる無花果の木」の物語── 三浦 望 ヨハネ福音書12章25節に関する一考察──「二つのアイオーン」観を前提とした「永遠の生命」(こ州α1ωv10⊆)── 野口 誠 ローマ人への手紙8章28節──本文と解釈── 東よしみ コリント人への第一の手紙における知恵と知者 朴 憲郁 第一コリント書7章における〈非婚の優位〉の問題 山本康弘 パウロ時代の文献によるeργαv6μoUの意味に関する研究 辻 学 子を産むことによって救われる──Iテモテ2:15の文脈と背景── 川村輝典 世にあるキリスト者 ──ディオグネートスヘの手紙5,6章の研究── 戸田 聡 巨大な地下迷宮? ──タティアノスのデンアテッサロンをめぐって── 出村みや子 アレクサンドリアの聖書解釈の伝統における貧困と富の理解 保坂高殿 古代キリスト教における十字形磔刑図像の成立 第42号 (2010年) 太田修司「『金持ちとラザロの譬え』の民話的背景」 大住雄一「135番目の詩編はなぜ出エジプトの賛美か」 小友聡「黙示の起源は預言か知恵か」 守屋彰夫「死海文書アラム語『外典創世記』翻訳と注解」 魯 恩硯「旧約聖書における審判思想の歴史的発展過程についての考察 ──ペルシア時代におけるユダヤ共同体の懲戒的正義に関する問いとその時代背景を中心に──」 淺野淳博「フィリピ書翻訳に関する一提案──パウロの『反対者』──」 大貫 隆「ストアの情念論とグノーシス ──ヨハネのアポクリュフォン §51-54(NHC II)における反ストア的編集について──」 三浦 望「ヨハネ福音書における神殿モティーフとその意味」 嶺重 淑「ルカのファリサイ派像」 吉田 忍「イエスは十字架につけられているのか」 第43号 (2011年) 長谷川修一「聖書と考古学──聖書考古学の限界と考古学からの展望──」 山我哲雄「歴代誌の外政思想と歴史像」 辻 学「パウロの個人宛書簡──偽名文書としての牧会書簡の戦略──」 戸田 聡「『エウセビオスのカノン』に見る福音書理解」 中西恭子「ユリアヌスのキリスト教批判における聖書解釈」 吉田 忍「パウロは十字架につけられているのか──ガリラヤの信徒への手紙2章19節の解釈──」 第44号 (2012年) 柊 暁生「助産婦とエジプト王──出エジプト記1章15-22節の文学的考察──」 三津間 康幸「バビロンでの息災祈願の奉献における神殿エサギルと王権」 大貫隆「死人たちには未来がある──マタイ8,21f/ルカ9,59fの新しい読み方──」 ショーン・フレイン(吉田忍/佐藤研・共訳)「ガリラヤにおけるイエス──北からのよき知らせ?──」 吉田 忍「世界は十字架につけられているのか──ガリラヤの信徒への手紙6章14節の解釈──」 第45号 (2013年) 加藤 久美子「鉄は鉄を研ぐ──箴言(ミシュレー)第II部、第V部におけるレア(rea‘I)──」 山我 哲雄「申命記史書におけるダビデ王朝」 山畑 譲「エゼキエル書28章11節-19節におけるケルブ」 浅野 淳博「『福音にのっとった殉教』によるインクルーシオ――『ポリュカルポス殉教物語』の文学的考察――」 荒井 献「聖餐の成立をめぐって」 飯島 克彦「カイサレイアのアレタス『ヨハネの黙示録注解』と10世紀のビザンツにおける終末意識について」 伊東 寿泰「ヨハネ福音書における贖罪信仰――文学的方法による分析――」 本多峰子「ルカ福音書17:20-21の解釈――とくにη Βασιλεια του θεου εντοs υμων εστινをめぐって――」 三浦望「『父の家』(神の家族 Familia Dei)――ヨハネ福音書における『家族』メタファーとその意味――」 第46号 聖書的宗教とその周辺 -佐藤研教授、月本昭男教授、守屋彰夫教授献呈論文集- (2014年) まえがき(市川裕/朴憲郁/廣石望/山我哲雄) 佐藤研教授研究業績/月本昭男教授研究業績/守屋彰夫教授研究業績 ● 旧約関係 大住 雄一 「種入れぬパンの祭り -農耕の祭りの歴史化という構想について-」 加藤久美子 「箴言の二行詩格言集における知恵の教育法」 金井 美彦 「預言と祭儀と黙示の間 -ヨエル書の特異性について-」 杉本 智俊 「ベイティン(ベテル)遺蹟における考古学的調査の課題」 鈴木淳之介 「なぜ歴代誌家は、アハズヤ王の即位年齢を変えたのか?」 高橋 優子 「メツァド・ハシャブヤフ再考」 長谷川修一 「歴代誌のイエフ -イエフはアハズヤを殺害したか(歴代誌下22章7-9a節)-」 山我 哲雄 「歴代誌におけるナタン預言」 山吉 智久 「『人も獣も、あなたは救われる、ヤハウェよ』(詩 36:7)-古代イスラエルにおける神と人と動物-」 飯郷 友康 「ヤコブの泉 -申命記33:28 解釈史-」 市川 裕 「ユダヤ賢者における『神の国』の観念」 上村 静 「コヘレトとイエス -ニヒリズムによるエゴイズムの克服-」 勝村 弘也 「古代ユダヤ教世界における『魔術』 -死海文書を手掛かりとして-」 杉江 拓磨 「四大帝国の興亡? -『王朝予言』の再解釈とダニエル書-」 三津間康幸 「『バビロン人』『バビロンの子ら』、 神殿エサギル -アレクサンドロス大王以降の天文日誌および年代誌による研究-」 守屋 彰夫 「マソラの永遠のケレーとサマリア五書における当該箇所の比較」 ● 新約関係 大宮 有博 「皮膚病(レプラ)をめぐる社会人類学的考察 -ルカによる福音書の奇跡物語によせて-」 本多 峰子 「マルコによる福音書における「罪人の救い」-頑迷預言と弟子たちの無理解を中心に-」 嶺重 淑 「罪深い女性の赦し -ルカ福音書7章36-50節の編集史的考察-」 山田 耕太 「Q文書における洗礼者ヨハネに関する説教の修辞学的分析」 山野 貴彦 「マルコ福音書におけるシナゴーグ共同体の描写と意義」 山吉 裕子 「ユダヤ人税納入の神学的意味付け -マタイ福音書17章24-27節の釈義的研究-」 吉田 新 「ユダヤ教殉教文学とイエスの受難物語 -復活の主題をめぐって-」 浅野 淳博 「ガラテヤ書における邪視告発の応酬 -社会科学的批評のためのエチュード-」 太田 修司 「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か?」 河野 克也 「パウロの『契約遵法主義』再考 -そのユダヤ教的性格をめぐる最近の論争史によせて-」 辻 学 「ヤコブ書におけるイエス伝承の機能」 朴 憲郁 「ヘブル書12章4-11節の<主のパイデイア>概念について」 原口 尚彰 「ディアスポラ書簡としてのテサロニケ書」 廣石 望 「『種』の隠喩話法と復活 -原始キリスト教とその周辺における-」 三浦 望 「ヨハネの第一の手紙2章2節、4章10節におけるhilasmosに関する一考察 -ヨハネの第一の手紙における贖罪思想-」 吉田 忍 「ガラテヤ人への手紙におけるΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ」 大貫 隆 「『三部の教え』(NHC I,5)の三層原理」 戸田 聡 「トマスによる福音書をめぐる諸問題」 第47号 (2016年) 山吉 智久 「ヨブ記42章6節をどう解すか―ヨブ記におけるヘブライ語語彙根מאסをめぐって―」 橘 耕太 「使徒行伝6章の『ヘレニスタイ』はだれか―その歴史的実体と地理的拡大―」 本多 峰子 「マルコ福音書の文脈におけるイエスの最期の叫び―『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』の意味― 吉田 忍 「『キリストの死』と『神の愛』の関係(ロマ5:5-6.8) 第48号 (2017年) 山吉 智久 「ヨシュアは二度死ぬ―士師記の二重の始まり―」 橘 耕太 「ユダヤ人共同体における『出身地』」 千ヶ崎祥平 「イエスとパウロにおける独身―周辺世界の事例との比較にみる動機の特徴―」 第49号 (2018年) 藤方 玲衣 「エリフの発言におけるシャハト表現の考察」 山野 貴彦 「テル・レヘシュ シナゴーグ ―後1世紀のガリラヤにおけるシナゴーグの新例―」 大川 大地 「ゲラサのレギオン ―マルコ福音書5章1-20節の伝承史的・社会史的分析と考察―」 千ヶ崎祥平 「初期ユダヤ教における独身 ―エッセネ派/クムラン宗団およびテラペウタイを中心に―」 ペーター・ランぺ(山吉 裕子訳)「地中海地域における初期キリスト教徒たちの超域的なネットワーク」 第50号 (2019年) 上村 静 「神殿の崩壊―第4エズラ記―」 市川 裕 「古代ユダヤ教の贖罪と悔い改め―心の内と儀礼―」 山吉 智久 「『お前は彼にとって神となる』(出4:16)―古代イスラエルにおけるモーセ像の一側面―」 ペトラ・フォン・ゲミュンデン(廣石 望訳) 「初期キリスト教における感情 ―『牧者』におけるὀξυχολία(憤怒)を例にとった方法論的および内容的な諸問題―」 廣石 望 「贖罪―新約聖書における救済論的メタファーの諸相―」 |
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